主流

ファミコンが登場して間もない頃、日本のコンピューター界は銀行や新聞社で使う大型機を除けば、
オフィスコンピューターというワープロと計算機を足したようなものが主流であった。
大きさにして事務机の半分くらいの大きさの箱形である。
メーカーではIBM、カシオ、富士通などがあった。
中小企業の社長はオフィスコンピューターをリースで借りて、
事務用のソフトウェアをソフト会社に注文するのが当時のスタイルだった。
オフィスコンピューターは企業家にとってステータスのようなもので、
社長のベンツのような役割もあった。

ある日、会社にIBMの新品のオフィスコンピューターが入ってきた。
IBMといえば超一流のコンピューター会社で、
清潔感のある淡いグレーの見かけも手伝って社長の購買意欲をそそるには充分であった。
能力としては内蔵メモリーが512KバイトであったからいまのWINDOWSパソコンの
20分の1くらいであろうか。

一方、アメリカではDECという会社のミニコン、PDPー11の全盛期であった。
PDP−11は一台の筐体に5台位の端末機が付けられ、5人で同時に使えるという、
画期的なコンピューターで、とても使いやすくユーザー数でもおそらく世界ーだった。
PDP−11というコンピューター自体がすでにアメリカコンピューター界の文化を築いていて
日本のオフコン文化ははるかに後進であった。
ハードの性能面では日本の部品が優れていたにもかかわらず、
PDP−11が進んでいたのはソフト面のオペレーティングシステムが優れていたからだった。
たとえるなら、一台のPC98を数人で同時に使えるようにする力が
そのオペレーティングシステムにはあった。

私が初めてPDP−11に触れたのは三井造船のコンピュータールームだった。
全面の21個のスイッチをマニュアル通りにセットして、スタートキーを押すと
PDP−11は数十個のランプを輝かせて動き出す。
黒いパネルに包まれた横幅3mのPDP−11の筐体はひたすらカッコよかった。

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