そのころ

E子には相変わらず片思いであった。
そんな面倒くさい状態などあきらめてしまえば
いいのだが、恋は難病である。
渋谷の会社と浜離宮の作業場所では顔を合わせるチャンスもなく、
アパートに帰ってはのたうち回っていた。
8月を迎えても、移植の作業は完了せず、私とKさんの作業場所は開発部のある
岡山の玉野というところに移されることに決まった。
三井造船は東京にはオフィスビルだけで、実際の船をつくる造船所は瀬戸内海に面したところにあるのだった。
作業中のデータを磁気テープと呼ばれる、昔のテープレコーダーみたいなものに吸い上げながら、
向かいに建っている朝日新聞の屋上からヘリコプターが頻繁に飛んでいるのが見えた。
あのジャンボジェット墜落の事件が起きた日である。
後から、松下電器のソフトの技術者も全員犠牲者になったと聞いた。
私はそのころ、岡山行きの支度を整えている最中だった。
夏服だけを詰め込んだ荷物は軽かった。

つぎ

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