バブルの始まり

そのころはバブルになり始めのころだった。
渋谷のパルコの周辺もこの頃から改築や新築する建物が増え始めた。
スペイン坂が綺麗になっていくのもこの頃だった。
世間はカフェバー・ブーム(現在ではほぼ絶滅)
会員制スポーツセンター・ブーム(100万円会員などというのも普通だった)
第二期六本木ディスコ・ブーム(私が勝手に呼んでいる、一期はサタデーナイトフィーバー、三期はジュリアナ東京)、
地上げ・ブーム(自分の住んでいた渋谷のアパートがこれにやられる)、
ルービックキューブ・ブーム(今見かけたりして驚く)
などがある。
渋谷界隈もバブルを受けて絶頂期を迎える。
このときお父さんやお母さんに手を引いて渋谷へ連れていってもらったお子さまが
現在、渋谷で闊歩している高校生だったりする。
高級アイスクリームが流行り始めたのもこの頃で、駅前のホブソンズが火付け役であった。

新たな仕事先は広尾の先。
渋谷から都バスで20分位のところにある。
バブル経済の勢いにのるようなおしゃれなビルの5階だったろうか。
日本能率協会の会社でジェーマスと呼んでいた。
仕事場も、激務の続くソフトウェアの仕事場とは思えないくらいきれいに片付いている。
コピー機やパソコン、事務机が設計図でもあるかのようにならべてある。
写真に撮っても差し支えがないくらいだ。
日本能率協会というくらいだから仕事場のモデルなのかも、
と当時の私は感じた。

仕事はN証券で使うための情報システムみたいなものだった。
株式の投資に代表される証券関係の仕事もコンピュータと縁が深い。
お金とコンピュータは仲良しなのだ。
キーボードを見れば、ドルのマークがあるし。

私の前に新しいマシンが来た。
日本IBMの最新鋭機55シリーズで、シリーズ中のラップトップ型と呼ばれる、
現在のノートパソコンの前身のものだった。
液晶ディスプレイはバックライトつきで見やすくハードディスク内蔵、
CPUは80286という画期的なものだった。

80286とはパソコンの処理能力を向上させる中央演算装置で、
今までの半分の時間で処理をしてくれる。
10分かかる処理がたった5分で終わる。
一日48回やる仕事が、倍の96回やらねばならないという
便利なのか厳しいのかわからない装置だ。

当時のIBMというブランドイメージは、
コンピューター業界のボーイング747ジャンボジェットだった。
NECも頑張っていたが、ブランドイメージ的にはエル特急あずさまでが精一杯だった。
この頃の日本IBM製品はほとんどの部品が日本製。
特にラップトップの筐体には歪み一つなく、
液晶画面の開閉は宇宙船のハッチさながらの精密さ。
外観も野暮ったさがなく、淡いグレーのプラスチックにも品があり、
引き出し式の取っ手をつかんで持って帰りたくなるほどだ。

このマシンは後日、N証券で鎖につながれることになる。

つぎ

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