No.15 36.5℃の赤い薔薇
 
僕はベランダに立っている。
昼間の東京上空は埃と青空が混じる。
あたたかいな。
遅い起床から、僕は今日もひとりぼっちだ。
上空から見る道路は、白いバンやアルミ色のトラック、
緑のバス、赤や青のクルマでいっぱい。
 
隣のベランダに人影はない。
そうだよな。
年中逢えるわけではないんだから。
ベランダを開ける音がする。
来た。
 
洗濯バサミの音に僕は耳を澄ます。
見えるのはベランダの手すりだけだ。
彼女の服か、彼氏の服か。
すすいだ水の匂いがしてくるようだ。
 
肩までのサラ髪をたらして、昨日の彼女がベランダ越しに顔を出してきた。
 
「あ…」
 
今日もTシャツのお隣さんは、僕のベランダを覗いたのだ。
え、どうしよう。
こういうときは、この一言かな。
 
「どうも」
 
Tシャツのお隣さん。
鈴木さんは張りのあるバネのようなカラダを
綿のTシャツで閉じこめたような感じだ。
 
「こんにちは、いい天気だよね」
「そうですね、こんな日は洗濯にいいかもしれません」
「今日は出かけたりしないの?」
「たぶん、一日のうち、何回かは出るつもりですけど」
「ねえ、チカラとか自信ある?」
「腕力は人並みにしかないですけど」
「私よりあるよね、男だから」
「うーん、そうかもしれないし、そうでないかもしれないし」
「頼みたいことがあるの、こっち来てくれる?」
 
僕はベランダの端へ行き、鈴木さんの側へ寄った。
鈴木さんのベランダには、小さな鉢植えが一つ。
植物はなく乾いた土だけが入っている。
 
「なんです?」
 
鈴木さんは素足にサンダル、洗濯カゴ、それだけの何もないベランダ。
Tシャツは腰の辺りまであって、そこから生足が伸びている。
下に何も来てないのか、ムネの辺りもちょっとやばい。
鈴木さんはちょっと上目遣いに僕を見ている。
 
「玄関から来て欲しいな、中に置いてある物なの」
 
僕はベランダから部屋に入り玄関で靴を履いた。
待てよ。
こんな小汚い靴じゃダメだ。
でも代わりがないな。
サンダルは荷造りしたとき捨てちゃったっけ。
そうだ鍵もかけて行かなきゃ、なにを頼まれるのか判らないし。
時間かかるかもしれないし。
そうだ鏡を見なきゃ。
クシは僕の部屋だ。
洗面所に涼子さんのブラシが放置してある。
コレ使っちゃえ。
 
僕は702号室のドアの前に来た。
ベルを押すとドアが開く。
 
「ごめんなさい、上がって」
 
赤い薔薇の入った花瓶。
「どうなってるの」で通販しているようなラッセンの絵画。
靴はヒールの低い黒が一足。
部屋の匂いはしない。
僕が入ると鈴木さんは僕の脇を抜けるようにドアに鍵を閉めた。
鈴木さんは、ほのかに汗の匂いがしたけれどイヤじゃなかった。
鈴木さんは僕が脱いだ靴を丁寧に揃えてくれている。
うへー、本当に入っちゃったよ、女の人の部屋に。
ベージュの絨毯が足に気持ちいい。
Tシャツに生足の鈴木さんの後ろ姿。
みずみずしい素足が絨毯に擦れていく。
 
「こっち」
 
間取りは僕たちの部屋と一緒だ。
テーブルに一輪の赤い薔薇。
ちょっと気取っているのかな。
 
「座って」
 
黒い皮のソファに身を沈める。 ソファは中の空気が押されて、黒い皮がカラダを包み込む。
鈴木さんが台所の床に身をかがめると、Tシャツの裾から太股よりも少し上の部分が…
僕に見せていいのかな。
いいんだろうな。
鈴木さんは床に近い戸棚から瓶の音を鳴らすようにとりだす。
胸に抱えるように持ってきたのは、マスタードの小瓶だった。
 
「これ開かなくて困ってたの」
 
鈴木さんは僕の横に座ると、僕の手に手を触れるように瓶を渡してくれた。
瓶は高級食材の紀ノ国屋で売っていそうな、アメリカ産の粒マスタードだ。
僕は瓶のフタに手をかけてみた。
固い。
 
「開かないでしょ」
 
鈴木さんは瓶に顔を近づける。
僕の鼻先には鈴木さんの胸の谷間があって、ほのかな汗の香りが漂ってくる。
女の頼みで男が瓶を開けようとして…
どこかで見たようなこのシチュエーション…
僕は力をかけてフタを絞るようにしてみる。
手の皮膚は少し痛くなってしまった。
 
「固いですね」
「だめかな」
 
僕は自分の手のひらがフタのギザギザに赤くなっているのを見た。
 
「手が痛くなった?、ごめんね」
 
鈴木さんは僕の手をとり、手のひらを見ている。
鈴木さんのTシャツは革製のソファにめくられるように腰の上まで露出している。
そこには黒いものしか見えてない。
鈴木さんと目が合う。
しまった、悟られた。
鈴木さんは澄ましている。
そして右手でTシャツの裾を太股のあいだに押し込んだ。
僕は体が熱いし、顔も赤い。
鈴木さんにHな僕をさとられたような気もする。
 
「開かないようだったら無理にしなくていいよ」
「お湯につけると開くかもしれないです、ライターであぶるとか」
 
輪ゴムを巻くと開けやすいって本で読んだこともあるな…
 
「一人で暮らしてるの?」
「え、二人です、同居人がいっしょで」
「もしかして彼女だったりして」
「それがそうでもなくて…、説明が難しいんですけれど」
「そう、彼女と住んでいるのね…」
 
しまった、なんかいけないことを言ったような気がする。
でもさ、事実だし別に鈴木さんとどうしようってわけでもないし。
鈴木さん、なんか暗くなっている。
どうしよう…
 
「彼氏がいるんですよね」
「いないよ」
「え、でも昨日…」
「私、魅力ないからさ…」
「そんなことないです」
 
鈴木さんは僕の手から瓶をとるとカーペットの上に置く。
 
「お礼になにかしてあげたいんだけれど」
「お礼なんて、瓶のふたも開かないのに」
「いいの何でも言って、何かして欲しいこと」
 
僕は頭の中が渦を巻いている。
これは絶対誘いだ。
いきなり言われるのは、すごーく困る…
鈴木さんは焦るでもなく、リラックスして両足を崩している。
Tシャツの裾もゆるんでくる。
やっぱり下は履いていない。
 
「興味ある?」
「え…」
「男の子だから、興味あるよね」
「はい…」
 
Tシャツの裾をめくる手。
脚線美の脂肪と、へその下からの丘が体毛に包まれていく。
写真集やテレビで見る物よりもずっと美しい。
 
「恥ずかしいな」
 
鈴木さんは赤い薔薇を手にとると、それで大切なところを隠してみせた。
そして僕のめがねは自分の汗と鈴木さんの体温で曇っていった。
 
つづく
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